《DOPE WAS HERE》

《DOPE WAS HERE》

DOPE WAS HERE
2011|ステッカー|サイズ可変

 

DOPE WAS HERE―つながりあうヴァンダリズム―

グラフィティは、都市の壁面、地下鉄やバスの路線などをひとつの肉体につくりかえてしまう。
落書きによってあらゆる性感帯を刺激された、はじめもおわりもない肉体に。
──ジャン・ボードリヤール


「わくわくSHIBUYA」は、2011年1月13日から2月13日まで、まる一カ月間、トーキョーワンダーサイト渋谷で開かれた展覧会だ。
遠藤一郎氏のコーディネートであるこの展示は、ある種のアンデパンダン展であった。なぜなら、出品者からの紹介があれば、という条件付きではあるものの、基本的に、無審査・自由出品をルールとしていたからである。
私はこの空間を、一種の「リーガル・ウォール」であるとかんがえた。
最終的に総勢200名近くの作家によって所狭しと作品が並べられた様は、あたかも都市空間のように、雑多で、混沌とした無秩序をかたちづくっている。しかしあくまで其処は、主催者によって作品の陳列を「合法的に」認められた秩序立った空間なのである。その矛盾を抱え込んだ空間の構造自体が、非常に「リーガル・ウォール」的だと私には思えたのだ。
ゆえに、私は「グラフィティ」という下位文化を参照し、自身のタグ・ネームである「DOPE」を中心に、「DOPE WAS HERE」、「DOPE参上」などと印刷されたステッカーを、会場の至るところにボミングした。
では、なぜ数あるグラフィティの方法論(マスターピース、スローアップ、タグ…)のなかで、ステッカーによるタギングを選択したのか。それは、ステッカーによるタグが最もヴァンダリズムを有していたからである。
「わくわくSHBUYA」では、個々の作家のスペースが確保されているということはなく、会期を通して、作品は無際限に増殖し、侵食し合ってゆく。そういったストリート的なシステムの中で有効なのは、決して作り込まれた細密画を素朴に壁面に掛けることではない。むしろ、作品の内実を問わず、増え続ける作品群と共に、自身の作品自体を増殖させることこそが重要である。
そのためにも、ハイコンテクストではない、万人のリテラシーに開かれた解読し易いヴィジュアルと、大量分布し易いステッカーという形式を保持したタギングが、最もヴァンダリズムを徹底し得る、合理的な方法であった。「DOPE WAS HERE」が「BNE WAS HERE」に依拠しているのも、「BNE」が、むろん、グラフィティのシンボルであり、最もフェイマスであるという事実に加えて、殊に上記二点において、非常に先鋭的であったからだ。
さらに、現代美術という観点からもタギングを思考できるのではないだろうか。
タグは基本的に、自身のタグ・ネームのみが描かれている。つまり、作家のサインそれ自体が作品化しているのだ。
ただの便器に「サイン」を施して作品化したデュシャンを例にあげるまでもなく、近代以降のアートが、作品の技術的達成やクオリティではなく、作家の有名性によって価値を担保されていたのだとすれば、作家と作品の間のある種の価値観の転倒が指摘できる。この転倒した現代美術の現実を、端的かつ露骨に炙り出せるのがタギングであった。
そもそもタギング乃至ボミングとは、「都市空間の所与のコンテクストに対してイレギュラーなコードを強引につけ加えていく」(大山エンリコイサム)ことである。これを「わくわくSHIBUYA」に援用してかんがえてみれば、ギャラリー内に張り巡らされた、個々の作品の持つコンテクストに対して、私のコードをつけ加えることで、その作品の読み替えができる、ということになろう。他の作家の固有性への侵犯は、他人の作品やキャプションにステッカーを貼ることで容易に達成できる。つまり、他人の作品に「サイン」をしてしまうことで、自分の作品にしてしまうのである。
しかし、ここで一つの問題が出てくる。勝手に他人の作品にボムってしまったら、それは主催者側の敷いた最低限のルールを逸脱することになってしまう、という問題だ。
その事態を回避するために、グラフィティにおけるキータームである「匿名性」や「つながり」をかんがえる必要が出てくる。
都市空間において、一般の人々から匿名的な「落書き」とみなされるに過ぎないグラフィティは、しかし、ある下位文化を形成するクラスタの内部では、「沈黙セル発話」(酒井隆史)として、強い固有性を持った「表現」として認識される。「姿の見えない『見知らぬ人』同士による、対面的ではない相互行為によって紡がれる」(南後由和)のが、グラフィティの特徴なのだ。つまり、そこには単純な「匿名性」とは異なる独自の「つながり」が存在する。
「わくわくSHBUYA」にも、上記の特徴が当てはまるのではないか。200名にも及ぶ作家全員と直接知り合えるはずはない。皆、作品を通して、個々の作家に想いを巡らすことで、生身の身体を介さずとも、相互にコミュニケーションを取ることができるのだ。また、展示空間内には、「わくわくSHIBUYA」のコードを共有しない他者には、それが芸術とは気付かないような作品(壁に付着したレッド・ブルの空き缶!)もあった。つまり、「わくわくSHIBUYA」という「リーガル・ウォール」があってはじめて、作品が成り立っているのだ。
これらを踏まえた上で、私は、「見知らぬ人」の作品と出来うる限り誠実にコミュニケーションを取りながら、しかし大胆にボミングを実践した。一方で、ギャラリーで実際に対面した作家に許可を得られた場合に限り、作品や、その人自体へのボムを行った。
このように、対面的か非対面的かにかかわらず、作家同士が自発的に「つながり」合い、作品を媒介として、多様なコミュニケーションを取ってゆくこと──それが「わくわくSHIBUYA」の主旨であったと私は理解している。 「DOPE」は、「わくわくSHIBUYA」が、単なる博覧会ではなく、あたかも都市のように、作品や作家同士が、「DOPE」な=「深い」つながりで結ばれ、相互作用し合う、生きた「肉体」へとトランスフォームするひとつの契機を与え得たのではないだろうか。
少なくともその痕跡は残せたはずである。搬出時なかなか剥がれてくれないステッカーにははっきりと「DOPE WAS HERE」と記されていたのだから。

中島晴矢 a.k.a. DOPE MEN

DOPE WAS HERE
2011|ステッカー|サイズ可変

 

DOPE WAS HERE―つながりあうヴァンダリズム―

グラフィティは、都市の壁面、地下鉄やバスの路線などをひとつの肉体につくりかえてしまう。
落書きによってあらゆる性感帯を刺激された、はじめもおわりもない肉体に。
──ジャン・ボードリヤール


「わくわくSHIBUYA」は、2011年1月13日から2月13日まで、まる一カ月間、トーキョーワンダーサイト渋谷で開かれた展覧会だ。
遠藤一郎氏のコーディネートであるこの展示は、ある種のアンデパンダン展であった。なぜなら、出品者からの紹介があれば、という条件付きではあるものの、基本的に、無審査・自由出品をルールとしていたからである。
私はこの空間を、一種の「リーガル・ウォール」であるとかんがえた。
最終的に総勢200名近くの作家によって所狭しと作品が並べられた様は、あたかも都市空間のように、雑多で、混沌とした無秩序をかたちづくっている。しかしあくまで其処は、主催者によって作品の陳列を「合法的に」認められた秩序立った空間なのである。その矛盾を抱え込んだ空間の構造自体が、非常に「リーガル・ウォール」的だと私には思えたのだ。
ゆえに、私は「グラフィティ」という下位文化を参照し、自身のタグ・ネームである「DOPE」を中心に、「DOPE WAS HERE」、「DOPE参上」などと印刷されたステッカーを、会場の至るところにボミングした。
では、なぜ数あるグラフィティの方法論(マスターピース、スローアップ、タグ…)のなかで、ステッカーによるタギングを選択したのか。それは、ステッカーによるタグが最もヴァンダリズムを有していたからである。
「わくわくSHBUYA」では、個々の作家のスペースが確保されているということはなく、会期を通して、作品は無際限に増殖し、侵食し合ってゆく。そういったストリート的なシステムの中で有効なのは、決して作り込まれた細密画を素朴に壁面に掛けることではない。むしろ、作品の内実を問わず、増え続ける作品群と共に、自身の作品自体を増殖させることこそが重要である。
そのためにも、ハイコンテクストではない、万人のリテラシーに開かれた解読し易いヴィジュアルと、大量分布し易いステッカーという形式を保持したタギングが、最もヴァンダリズムを徹底し得る、合理的な方法であった。「DOPE WAS HERE」が「BNE WAS HERE」に依拠しているのも、「BNE」が、むろん、グラフィティのシンボルであり、最もフェイマスであるという事実に加えて、殊に上記二点において、非常に先鋭的であったからだ。
さらに、現代美術という観点からもタギングを思考できるのではないだろうか。
タグは基本的に、自身のタグ・ネームのみが描かれている。つまり、作家のサインそれ自体が作品化しているのだ。
ただの便器に「サイン」を施して作品化したデュシャンを例にあげるまでもなく、近代以降のアートが、作品の技術的達成やクオリティではなく、作家の有名性によって価値を担保されていたのだとすれば、作家と作品の間のある種の価値観の転倒が指摘できる。この転倒した現代美術の現実を、端的かつ露骨に炙り出せるのがタギングであった。
そもそもタギング乃至ボミングとは、「都市空間の所与のコンテクストに対してイレギュラーなコードを強引につけ加えていく」(大山エンリコイサム)ことである。これを「わくわくSHIBUYA」に援用してかんがえてみれば、ギャラリー内に張り巡らされた、個々の作品の持つコンテクストに対して、私のコードをつけ加えることで、その作品の読み替えができる、ということになろう。他の作家の固有性への侵犯は、他人の作品やキャプションにステッカーを貼ることで容易に達成できる。つまり、他人の作品に「サイン」をしてしまうことで、自分の作品にしてしまうのである。
しかし、ここで一つの問題が出てくる。勝手に他人の作品にボムってしまったら、それは主催者側の敷いた最低限のルールを逸脱することになってしまう、という問題だ。
その事態を回避するために、グラフィティにおけるキータームである「匿名性」や「つながり」をかんがえる必要が出てくる。
都市空間において、一般の人々から匿名的な「落書き」とみなされるに過ぎないグラフィティは、しかし、ある下位文化を形成するクラスタの内部では、「沈黙セル発話」(酒井隆史)として、強い固有性を持った「表現」として認識される。「姿の見えない『見知らぬ人』同士による、対面的ではない相互行為によって紡がれる」(南後由和)のが、グラフィティの特徴なのだ。つまり、そこには単純な「匿名性」とは異なる独自の「つながり」が存在する。
「わくわくSHBUYA」にも、上記の特徴が当てはまるのではないか。200名にも及ぶ作家全員と直接知り合えるはずはない。皆、作品を通して、個々の作家に想いを巡らすことで、生身の身体を介さずとも、相互にコミュニケーションを取ることができるのだ。また、展示空間内には、「わくわくSHIBUYA」のコードを共有しない他者には、それが芸術とは気付かないような作品(壁に付着したレッド・ブルの空き缶!)もあった。つまり、「わくわくSHIBUYA」という「リーガル・ウォール」があってはじめて、作品が成り立っているのだ。
これらを踏まえた上で、私は、「見知らぬ人」の作品と出来うる限り誠実にコミュニケーションを取りながら、しかし大胆にボミングを実践した。一方で、ギャラリーで実際に対面した作家に許可を得られた場合に限り、作品や、その人自体へのボムを行った。
このように、対面的か非対面的かにかかわらず、作家同士が自発的に「つながり」合い、作品を媒介として、多様なコミュニケーションを取ってゆくこと──それが「わくわくSHIBUYA」の主旨であったと私は理解している。 「DOPE」は、「わくわくSHIBUYA」が、単なる博覧会ではなく、あたかも都市のように、作品や作家同士が、「DOPE」な=「深い」つながりで結ばれ、相互作用し合う、生きた「肉体」へとトランスフォームするひとつの契機を与え得たのではないだろうか。
少なくともその痕跡は残せたはずである。搬出時なかなか剥がれてくれないステッカーにははっきりと「DOPE WAS HERE」と記されていたのだから。

中島晴矢 a.k.a. DOPE MEN