REACH MODERN

Main visual

名称:中島晴矢個展「REACH MODERN」
会場:ギャラリーアジト
会期:2012年8月11日〜9月7日
キュレーション:齋藤桂太

 

REACH MODERN

大正期に活躍した新感覚派の小説家・横光利一は、パリに外遊した際、若き岡本太郎に連れられて、モンマルトルにあるトリスタン・ツァラ邸を訪ねる。そこで、「シュールリアリズムは日本では成功していますか。」というツァラの問いに対し、 「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁盛しません。」
と答えている。
東日本大震災の直後、津波で押し流される東北の街々をパソコンのディスプレイ越しに流れて来るニュースの映像で見ながら、私の脳内には、その文言が張り付いて離れなかった。それは私の中で、メディアを通じて被災地の映像や写真を見るにつけ、不穏な響きを伴って肥大化し、切迫した現実味を帯びた。 一面瓦礫と化した街、ひっくり返って散乱する自動車、ビルの上に乗り上った船舶………。
確かに、現実に、シュールリアリズムよりはるかにシュールリアルな光景が、眼前の日本には、広がっていたのだ。
そんな思いを抱きながら、私は、大学の卒業論文として、「横光利一論─ナショナリズム・アヴァンギャルド・機械─」を書き上げた。原稿用紙200枚に手書きで文字を書き連ねていくうちに、やがて、ズキズキと痛み疼く腱鞘と、朦朧とする頭も手伝って、文字が、ある絵画的な相貌を湛えて眼前に迫りくる体験に、たびたび襲われた。「文字を書く」というその行為が、なにかデッサンやドゥローイングと相違ない、絵画的所作に思われてきたのだ。
結果的に手元には、文字のびっしりと書き連ねられた紙の束が残った。この《物体》と、頭を掠めた思考の断片とを結晶化しようと、私は名古屋のギャラリーアジトで個展を開くことを決めた。
日本はいま、ほんとうの近代へと到達する必要があるように思える。少なくとも、普遍的な近代へリーチしようとすること───「REACH MODERN」こそが、必要なのではないか。
関東大震災をひとつのきっかけにモダニズム作家として文壇に躍り出た横光は、新感覚派を興し、瓦礫の中から文字通り新しい文化をたちあげた。私たちもいまこの汚染され、荒れ地と化した日本の底から、新たな文化を、オルタナティヴな近代を、それがどんなに不可能に、難しいことに思えたとしても、つくりださなければならないのではないか……このような決意を胸に、この展示は行われる。
なお、「REACH MODERN」とは、横光利一をひとつの媒介として近代へと至る道を思考すること、すなわち「利一近代」であることは、言を俟たない。

中島晴矢




アーティストが「動き」を形にする道筋には、高速レーンと低速レーンがあると考えます。私たちの世界はグローバル化による同質化の圧力にさらされていますが、それはアート界にも影響しています。私が考えているのは、同質化への抵抗なのです。

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『インタビュー』※


今回の中島晴矢「REACH MODERN」展は、戦前の文学運動である新感覚派を代表する横光利一という作家に焦点を当てて構成されています。中島晴矢は2008年ころから美学校周辺を中心に活発な作家活動を続けており、その作品は様々なメディア、様々な表現形態を持ち、とても一人の作家とは思えないほどです。
では一体なぜ、そんなことが可能なのでしょうか?
中島晴矢の思想は、グローバルに対する同質化の拒否と、ローカルに対する完全な同質化の対立として表れます。彼の無数に存在する制作スタイルは、全て彼が「発見したローカルな思想を蘇らせるための方法」として獲得したものです。
世の中には大きく分けて二つのタイプの作家が居ます。一つは自分の「新しい」思想を主張する夢見がちなロマンチスト、そしてもう一つは他者の「既にある」思想を蘇らせる冷静沈着なリアリストです。彼はリアリストとして横光利一の思想を「再発見」します。
今回の展示を開催するにあたり、中島晴矢は「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁盛しません。」という横光利一の言葉を何度も繰り返しました。それは関東大震災の影響を受けた横光利一に対する切実な共感であるとも言えるでしょう。


私たちは字幕が偏在し、吹き替えが全面化した世界へ向かっている。今日のアートはテキストとイメージ、時間と空間、それらを編み込むつながりを探すのだ。アーティストは記号であふれた文化の風景を横断し、複数の表現やコミュニケーションの間の経路を創造する。

ニコラ・ブリオー『オルターモダン・マニフェスト』※


今回の展示における中島晴矢の目的の一つは、様々な手法で作られた記号から私たち観客が「日本の近代」とは何かを考察することだと言えるでしょう。それはつまり震災前の「前近代」から「近代」へと意識を自覚的に変更するということです。
中島晴矢が呼びかける対象は、震災前から変わらず自覚的に動き続ける人でも、震災によって動きが変わった人でもありません。彼が呼びかけるのは震災前から変わらず、無自覚なまま形骸化した動きを続ける「前近代」の人々に対してです。
例えるなら中島晴矢はシャーマンです。彼は対象をどう牽引するかを切実に、そして誠実に考えていると言えるでしょう。また戦闘的な姿勢を持ち、最前線で壮絶な撤退線を続ける「もうひとつの近代」の開拓者とも言えるのではないでしょうか。


※翻訳文引用元:辻憲行氏「芸術係数blog」

齋藤桂太( Gallery Ajito Curator / 渋家 )

名称:中島晴矢個展「REACH MODERN」
会場:ギャラリーアジト
会期:2012年8月11日〜9月7日
キュレーション:齋藤桂太

 

REACH MODERN

大正期に活躍した新感覚派の小説家・横光利一は、パリに外遊した際、若き岡本太郎に連れられて、モンマルトルにあるトリスタン・ツァラ邸を訪ねる。そこで、「シュールリアリズムは日本では成功していますか。」というツァラの問いに対し、 「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁盛しません。」
と答えている。
東日本大震災の直後、津波で押し流される東北の街々をパソコンのディスプレイ越しに流れて来るニュースの映像で見ながら、私の脳内には、その文言が張り付いて離れなかった。それは私の中で、メディアを通じて被災地の映像や写真を見るにつけ、不穏な響きを伴って肥大化し、切迫した現実味を帯びた。 一面瓦礫と化した街、ひっくり返って散乱する自動車、ビルの上に乗り上った船舶………。
確かに、現実に、シュールリアリズムよりはるかにシュールリアルな光景が、眼前の日本には、広がっていたのだ。
そんな思いを抱きながら、私は、大学の卒業論文として、「横光利一論─ナショナリズム・アヴァンギャルド・機械─」を書き上げた。原稿用紙200枚に手書きで文字を書き連ねていくうちに、やがて、ズキズキと痛み疼く腱鞘と、朦朧とする頭も手伝って、文字が、ある絵画的な相貌を湛えて眼前に迫りくる体験に、たびたび襲われた。「文字を書く」というその行為が、なにかデッサンやドゥローイングと相違ない、絵画的所作に思われてきたのだ。
結果的に手元には、文字のびっしりと書き連ねられた紙の束が残った。この《物体》と、頭を掠めた思考の断片とを結晶化しようと、私は名古屋のギャラリーアジトで個展を開くことを決めた。
日本はいま、ほんとうの近代へと到達する必要があるように思える。少なくとも、普遍的な近代へリーチしようとすること───「REACH MODERN」こそが、必要なのではないか。
関東大震災をひとつのきっかけにモダニズム作家として文壇に躍り出た横光は、新感覚派を興し、瓦礫の中から文字通り新しい文化をたちあげた。私たちもいまこの汚染され、荒れ地と化した日本の底から、新たな文化を、オルタナティヴな近代を、それがどんなに不可能に、難しいことに思えたとしても、つくりださなければならないのではないか……このような決意を胸に、この展示は行われる。
なお、「REACH MODERN」とは、横光利一をひとつの媒介として近代へと至る道を思考すること、すなわち「利一近代」であることは、言を俟たない。

中島晴矢




アーティストが「動き」を形にする道筋には、高速レーンと低速レーンがあると考えます。私たちの世界はグローバル化による同質化の圧力にさらされていますが、それはアート界にも影響しています。私が考えているのは、同質化への抵抗なのです。

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『インタビュー』※


今回の中島晴矢「REACH MODERN」展は、戦前の文学運動である新感覚派を代表する横光利一という作家に焦点を当てて構成されています。中島晴矢は2008年ころから美学校周辺を中心に活発な作家活動を続けており、その作品は様々なメディア、様々な表現形態を持ち、とても一人の作家とは思えないほどです。
では一体なぜ、そんなことが可能なのでしょうか?
中島晴矢の思想は、グローバルに対する同質化の拒否と、ローカルに対する完全な同質化の対立として表れます。彼の無数に存在する制作スタイルは、全て彼が「発見したローカルな思想を蘇らせるための方法」として獲得したものです。
世の中には大きく分けて二つのタイプの作家が居ます。一つは自分の「新しい」思想を主張する夢見がちなロマンチスト、そしてもう一つは他者の「既にある」思想を蘇らせる冷静沈着なリアリストです。彼はリアリストとして横光利一の思想を「再発見」します。
今回の展示を開催するにあたり、中島晴矢は「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁盛しません。」という横光利一の言葉を何度も繰り返しました。それは関東大震災の影響を受けた横光利一に対する切実な共感であるとも言えるでしょう。


私たちは字幕が偏在し、吹き替えが全面化した世界へ向かっている。今日のアートはテキストとイメージ、時間と空間、それらを編み込むつながりを探すのだ。アーティストは記号であふれた文化の風景を横断し、複数の表現やコミュニケーションの間の経路を創造する。

ニコラ・ブリオー『オルターモダン・マニフェスト』※


今回の展示における中島晴矢の目的の一つは、様々な手法で作られた記号から私たち観客が「日本の近代」とは何かを考察することだと言えるでしょう。それはつまり震災前の「前近代」から「近代」へと意識を自覚的に変更するということです。
中島晴矢が呼びかける対象は、震災前から変わらず自覚的に動き続ける人でも、震災によって動きが変わった人でもありません。彼が呼びかけるのは震災前から変わらず、無自覚なまま形骸化した動きを続ける「前近代」の人々に対してです。
例えるなら中島晴矢はシャーマンです。彼は対象をどう牽引するかを切実に、そして誠実に考えていると言えるでしょう。また戦闘的な姿勢を持ち、最前線で壮絶な撤退線を続ける「もうひとつの近代」の開拓者とも言えるのではないでしょうか。


※翻訳文引用元:辻憲行氏「芸術係数blog」

齋藤桂太( Gallery Ajito Curator / 渋家 )