鬼盛り☆ブ―ト・キャンプ

Main visual

名称:鬼盛り☆ブ―ト・キャンプ(via art 2010)
会期:2010年12月21日~12月25日
会場:シンワアートミュージアム


゜+∵。.鬼盛り☆ブ―ト・キャンプ. 。∵+゜

渋谷に一軒家を借りて十数人で住みつつ、オルタナティブなアート・スペースとして運営している「渋家」───そのメンバーである私たちの今回の展覧会のテーマは、「鬼盛り☆ブート・キャンプ」です。このタイトルには、いくつかの意味が含まれています。「鬼盛り」、「キャンプ」、「ビリーズ・ブ―トキャンプ」などです。

「鬼盛り」としての現代美術

まず、「鬼盛り」とは、2006年に創刊された、ギャル系・キャバ嬢系のヘアメイク&ファッション雑誌『小悪魔ageha』を起源とするタームです。「盛り」とは、主に髪型や服装などが過剰に装飾されている状態を指します。さらに、「鬼」という接頭語が付くことで、物理的・精神的に“盛っている”ことの最上級を意味します。既に一般化した「超○○」の「超」が、あたかも「蝶(アゲハ)」へと羽化したように、よりゴージャスかつビビットになったものが「鬼」なのです。
そもそも、現代美術とは「鬼盛り」なのではないでしょうか?現代美術の始祖であるマルセル・デュシャンは、単なる複製された工業製品である便器にサインをし、『泉』というタイトルをつけて美術館に展示しました。言ってしまえばデュシャンは、「ダダイズム」や「レディメイド」という概念の提示も含め、ただの便器を「鬼盛って」、芸術作品であるとしたのです。そこには美術という制度自体を暴く自覚的な「鬼盛り」が見て取れます。
さらに、一息に現代日本へと時空を移せば、たとえば「森美術館」は「盛り美術館」だと言えはしないでしょうか。六本木という立地(リッチ!)、勝ち組的なるものの象徴としての六本木ヒルズ、あるいは端的に森タワー53階という位相など、様々な「盛り」が土台としてあります。また、ヒルズ族であるホリエモンに顕著なように、そこは実体なき経済の中心です。金融大恐慌にまで至った金融工学は、要するに、資本主義を「鬼盛って」いたわけです。つまり、「実体」に対して「虚飾」のような意味合いが、「鬼盛り」の本質なのではないでしょうか。
もといたホストに加え、「渋家」にギャルやキャバ嬢が入ってきたことにより蔓延したこの言葉を用いて、私たちは、新宿歌舞伎町感漂う「鬼盛り」インスタレーションを実践します。メンバーのホストの「鬼盛り」写真を象徴として掲げ、展示空間内のあらゆる作品をクリスマス仕様に「デコり」、『小悪魔ageha』の誌面から成るコラージュを張り巡らせて、私たちのアートを「虚飾」として提示するのです。

《キャンプ》──【新しい】シブ・ハウス【人工】──

次に、「鬼盛り」=「虚飾」は、ただちに、《キャンプ》と関連性を持ちます。《キャンプ》とは、もちろん本来「テントを張って野営すること」という意味ですが、同時に、スーザン・ソンタグが「《キャンプ》についてのノート」で述べている概念でもあります。
ソンタグによれば、《キャンプ》とは、「同性愛者」に代表されるような、「人工」・「誇張」を好み、「都会的」で、「内容」ではなく「様式(スタイル)」を強調する感覚です。それらを体現する「装飾的芸術」は、「出来が悪」く「俗悪」で、「外れた」「ありのままでないもの」になります。そして、《キャンプ》的なものには「失敗した真面目さ」や、「情熱的」で「異常」な精神が宿っており、尚且つ「退屈」です。しかしそれこそが「道徳」に対する「美学」の勝利であり、「悲劇」に対する「アイロニー」の勝利なのです。つまり、「ひどいからいい」(!)のだと、ソンタグは喝破します。
この感覚は、そのまま「鬼盛り☆ブート・キャンプ」ないし「渋家」にあてはまる。渋谷区という「都会」に居を構える「少数派」でありながら、人生に「失敗した」社会のくずが集住する「渋家」は、基本的に「俗悪」であり「異常」な空間です。しかし、であるがゆえにこそ、曰く言い難い「快楽」が、「悪趣味」な輝きが、「ひどいからいい」が、満ち充ちているのです。むろん、「ハウス・レス」的に「逃走」を続ける「渋家」には、本来の野宿者的な意味での「キャンプ」も含意されます。
さらに言えば、「鬼盛り☆ブート・キャンプ」では、主に家電を作品の素材(メディア)として使用します。“家電芸人”ならぬ“家電芸術”です。私たちの生活(ライフ)にあふれている必要不可欠な家電は、一見日常の中で「自然」に存在しているようでいて、その実、非常に「人工」的なものです。そもそも、「キャンプ趣味は、自然を消し去るか、それに正面から反逆するかである」とソンタグが書いているように、《キャンプ》は「自然」と対立します。唐突に言えば、PCを山積みにした「カオス*ラウンジ」が、現代のネットワーク環境を「【新しい】カオス*ラウンジ【自然】」と標榜する時に隠蔽されているのは、そのプラットホームを支える「人工」的なインフラではないでしょうか。一方で私たちは、生身のコミュニケーションを媒介としているがゆえに、70年代以降、付加価値による差異化を徹底された家電の「虚飾」性に敏感たり得ます。つまり、私たちは、《キャンプ》としての「【新しい】シブ・ハウス【人工】」を打ち出したいのです。

《鬼盛り☆ブ―ト・キャンプ》

最後に、「鬼盛り」と《キャンプ》をブリッジするものとして、「ビリーズ・ブートキャンプ」があります。一週間でダイエットが出来るという「鬼盛り」感、流行りものを時間が経過してから再び取り出した時の《キャンプ》さ、さらには「鬼軍曹・ビリー」というキャラクター自体の異常な《キャンプ》さ、「人工」的で筋肉「盛り盛り(モリモリ)」な身体、「実体」を欠いた笑顔、「内容」の無い叱咤激励の言葉───最早、「ビリーズ・ブートキャンプ」が「鬼盛り☆ブート・キャンプ」を体現していると言っても過言ではありません。
これらの要素を踏まえ、「渋家」は、“超=蝶”「鬼盛り」で、「虚飾」的な「様式(スタイル)」に彩られた、「家電」による「人工」的で「俗悪」で《キャンプ》な展示を行います。
何より、私たちはビリーのように、一週間で全作品をでっち上げたのですから。

中島晴矢

名称:鬼盛り☆ブ―ト・キャンプ(via art 2010)
会期:2010年12月21日~12月25日
会場:シンワアートミュージアム

゜+∵。.鬼盛り☆ブ―ト・キャンプ. 。∵+゜

渋谷に一軒家を借りて十数人で住みつつ、オルタナティブなアート・スペースとして運営している「渋家」───そのメンバーである私たちの今回の展覧会のテーマは、「鬼盛り☆ブート・キャンプ」です。このタイトルには、いくつかの意味が含まれています。「鬼盛り」、「キャンプ」、「ビリーズ・ブ―トキャンプ」などです。

「鬼盛り」としての現代美術

まず、「鬼盛り」とは、2006年に創刊された、ギャル系・キャバ嬢系のヘアメイク&ファッション雑誌『小悪魔ageha』を起源とするタームです。「盛り」とは、主に髪型や服装などが過剰に装飾されている状態を指します。さらに、「鬼」という接頭語が付くことで、物理的・精神的に“盛っている”ことの最上級を意味します。既に一般化した「超○○」の「超」が、あたかも「蝶(アゲハ)」へと羽化したように、よりゴージャスかつビビットになったものが「鬼」なのです。
そもそも、現代美術とは「鬼盛り」なのではないでしょうか?現代美術の始祖であるマルセル・デュシャンは、単なる複製された工業製品である便器にサインをし、『泉』というタイトルをつけて美術館に展示しました。言ってしまえばデュシャンは、「ダダイズム」や「レディメイド」という概念の提示も含め、ただの便器を「鬼盛って」、芸術作品であるとしたのです。そこには美術という制度自体を暴く自覚的な「鬼盛り」が見て取れます。
さらに、一息に現代日本へと時空を移せば、たとえば「森美術館」は「盛り美術館」だと言えはしないでしょうか。六本木という立地(リッチ!)、勝ち組的なるものの象徴としての六本木ヒルズ、あるいは端的に森タワー53階という位相など、様々な「盛り」が土台としてあります。また、ヒルズ族であるホリエモンに顕著なように、そこは実体なき経済の中心です。金融大恐慌にまで至った金融工学は、要するに、資本主義を「鬼盛って」いたわけです。つまり、「実体」に対して「虚飾」のような意味合いが、「鬼盛り」の本質なのではないでしょうか。
もといたホストに加え、「渋家」にギャルやキャバ嬢が入ってきたことにより蔓延したこの言葉を用いて、私たちは、新宿歌舞伎町感漂う「鬼盛り」インスタレーションを実践します。メンバーのホストの「鬼盛り」写真を象徴として掲げ、展示空間内のあらゆる作品をクリスマス仕様に「デコり」、『小悪魔ageha』の誌面から成るコラージュを張り巡らせて、私たちのアートを「虚飾」として提示するのです。

《キャンプ》──【新しい】シブ・ハウス【人工】──

次に、「鬼盛り」=「虚飾」は、ただちに、《キャンプ》と関連性を持ちます。《キャンプ》とは、もちろん本来「テントを張って野営すること」という意味ですが、同時に、スーザン・ソンタグが「《キャンプ》についてのノート」で述べている概念でもあります。
ソンタグによれば、《キャンプ》とは、「同性愛者」に代表されるような、「人工」・「誇張」を好み、「都会的」で、「内容」ではなく「様式(スタイル)」を強調する感覚です。それらを体現する「装飾的芸術」は、「出来が悪」く「俗悪」で、「外れた」「ありのままでないもの」になります。そして、《キャンプ》的なものには「失敗した真面目さ」や、「情熱的」で「異常」な精神が宿っており、尚且つ「退屈」です。しかしそれこそが「道徳」に対する「美学」の勝利であり、「悲劇」に対する「アイロニー」の勝利なのです。つまり、「ひどいからいい」(!)のだと、ソンタグは喝破します。
この感覚は、そのまま「鬼盛り☆ブート・キャンプ」ないし「渋家」にあてはまる。渋谷区という「都会」に居を構える「少数派」でありながら、人生に「失敗した」社会のくずが集住する「渋家」は、基本的に「俗悪」であり「異常」な空間です。しかし、であるがゆえにこそ、曰く言い難い「快楽」が、「悪趣味」な輝きが、「ひどいからいい」が、満ち充ちているのです。むろん、「ハウス・レス」的に「逃走」を続ける「渋家」には、本来の野宿者的な意味での「キャンプ」も含意されます。
さらに言えば、「鬼盛り☆ブート・キャンプ」では、主に家電を作品の素材(メディア)として使用します。“家電芸人”ならぬ“家電芸術”です。私たちの生活(ライフ)にあふれている必要不可欠な家電は、一見日常の中で「自然」に存在しているようでいて、その実、非常に「人工」的なものです。そもそも、「キャンプ趣味は、自然を消し去るか、それに正面から反逆するかである」とソンタグが書いているように、《キャンプ》は「自然」と対立します。唐突に言えば、PCを山積みにした「カオス*ラウンジ」が、現代のネットワーク環境を「【新しい】カオス*ラウンジ【自然】」と標榜する時に隠蔽されているのは、そのプラットホームを支える「人工」的なインフラではないでしょうか。一方で私たちは、生身のコミュニケーションを媒介としているがゆえに、70年代以降、付加価値による差異化を徹底された家電の「虚飾」性に敏感たり得ます。つまり、私たちは、《キャンプ》としての「【新しい】シブ・ハウス【人工】」を打ち出したいのです。

《鬼盛り☆ブ―ト・キャンプ》

最後に、「鬼盛り」と《キャンプ》をブリッジするものとして、「ビリーズ・ブートキャンプ」があります。一週間でダイエットが出来るという「鬼盛り」感、流行りものを時間が経過してから再び取り出した時の《キャンプ》さ、さらには「鬼軍曹・ビリー」というキャラクター自体の異常な《キャンプ》さ、「人工」的で筋肉「盛り盛り(モリモリ)」な身体、「実体」を欠いた笑顔、「内容」の無い叱咤激励の言葉───最早、「ビリーズ・ブートキャンプ」が「鬼盛り☆ブート・キャンプ」を体現していると言っても過言ではありません。
これらの要素を踏まえ、「渋家」は、“超=蝶”「鬼盛り」で、「虚飾」的な「様式(スタイル)」に彩られた、「家電」による「人工」的で「俗悪」で《キャンプ》な展示を行います。
何より、私たちはビリーのように、一週間で全作品をでっち上げたのですから。

中島晴矢