対談 : 宮台真司×内海信彦 (司会 : 中島晴矢)
2010
MIYADAI.com blog 『芸術家の内海信彦先生と、弟子の中島「イチモツ」晴矢を前に、ゲージツ論をぶちました。』
「シャカイとゲージツ」は、「行使膣展」の一環として私が主催したトークイベントです。前年の鈴木邦男氏に続き、 社会学者の宮台真司氏を招き、内海氏との対談を設計しました。 まず観客はギャラリーに足を踏み入れた瞬間から、爆音のノイズに包まれることになります。内田輝氏と「P.A.N.A project」(サウンドクリエーター集団)による、アヴァンギャルド・ジャズの即興演奏が始まっているからです。200 人余りの観客の熱気に包まれた雰囲気のまま、二人のトークがはじまりかけた折、私が乱入し、パフォーマンスを行 い、興奮した観客と殴り合いになったりする異様な混沌の中、対談が行われました。 私のパフォーマンス《世界陰核戦争宣言》は、全共闘的新左翼によるアジ演説の明確なパロディです。当時の伝説 的バンド「頭脳警察」の曲「世界革命戦争宣言」の歌詞をベースに、現代的な視点から当時のスタイルをアイロニ カルに再提示しています。ノイズ・ミュージックを背景に、現代の社会におけるアメリカン・グローバライゼーショ ンの一元化、社会的な排除の促進、インターネットの全域化といった問題を、批判的にがなりたてて、最終的に、自 分自身の股間につめた爆薬を爆破させるという、一人「自爆テロ」を敢行しました。 このパフォーマンスの主題は「非日常性」にあります。現代において、かつてありえた表現による非日常性の惹起は、 最早むずかしくなっています。日常/非日常という明確な境界線は消失し、全てが日常性に覆われてしまっている。
「非日常的」に見える表現でも、それは「どこかで見たようなもの」に過ぎません。既知性が全てを支配する再帰性 の中において、今後どういった表現をしていけばよいのか、が私の切実な問題でした。 そもそも表現=芸術は、常に社会の影響を受けざるを得ません。社会が変化すれば芸術も変化し、また、芸術の変 化は社会の変化を予言しもする。この社会と芸術の相互的な関係性について考察するために、トークイベント「シャ カイとゲージツ」をセッティングしました。
二人の対談はまず、70 年代と現代の差異からはじまりました。アヴァンギャルド・アンダーグラウンド・ハプニン グなどの経験による具体的なエピソードから、かつてはこの社会は「ウソ社会」であるという感受性が一般的だった、 と言います。日常の所々に破れ目があり、秩序を爆砕するものとしてアートがあったのです。それはロックもポップ もジャズもノイズも歌謡曲もそうだった。しかし現代は所詮すべて日常に回収されていくしかない。非日常の中に日 常が浮かんでいるのではなく、「登録された非日常」しかない。美術史的に言えばポロック以降の、アートの不可能 性についての気付きがあります。これでは、日常的な基盤を揺るがすはずのアートが、もはやサプリメントにしかな らない。つまり、アートも<システム>に登録されていくしかない。これは近代化に伴う必然的な現象です。 この近代の全域化に伴う不全感は、私たちにとって非常に共感できます。では、このような現代において、アーティ ストは何を行えばよいのか。 議論は、「非日常の登録の歴史」に遡ります。奈良時代におけるシャーマンから陰陽師への役人化。江戸時代の天保 の改革。ナチズム下のドイツやロシア、大日本帝国。ことほどかように、ガバナンスの観点から非日常は<システム >に登録されてゆきます。そこから議論は 80 年代に移行します。カタログやパロディによって現実を読み替え、異 化する運動がおこりました。しかしそれもまた失効してしまいます。 では現代はどうするか。ひとまず、アーティストは、非自明性を自明性として登録しようとする<システム>と永久 革命的に闘争し続けるしかない、というのが結論でした。アーティストの役割は、<システム>の運動を先回りして 人に何を<体験>させるかです。3.11 を経た現代においては、日常の「社会」が、最早「シャカイ」に過ぎないこ とが自明になっています。このような状況下では、悪化する「シャカイ」を逆手にとって表現を行っていくしかない でしょう。