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「室内写生展」Event「左右レボリューション21」オープニングパフォーマンス(2009 5.5)

1970.11.25ー男根崇拝のポルカー
中島晴矢

このパフォーマンスは、三島由紀夫の防衛省での自決前の演説を私なりにパフォーマンス化したものだ。 私にとって三島由紀夫はずっとアンビバレントな存在だった。高校時代から読み耽り、その死に様に憧憬を抱きつつも、しかし滑稽にも見える。政治的言説に感染しつつも、しかしどこか斜に構えてもしまう。本物にも見えてニセモノにも見える、 かっこいいけどかっこ悪い、そんな両義的な存在としてあった。そのような三島に対する曖昧模糊とした心性を、自身の思春期的もやもや感も包含してそのままぶちまけたのが、このパフォーマンスだ。 大仰で大袈裟な身振りで打つ演説の内容は、あまりにくだらなく個人的なことである。たとえば自身のマスターベーションの問題だったり、三面記事的ワイドショーの話題だったりする。あるいは三島の主張した天皇制などの日本的問題を日常的次元に矮小化して叫んだ。しかしそこにこそ私の感じていた三島の魅力があるのではないか。つまり、ロマン主義的で私的な衝動を、当時の日本や天皇の問題にまで拡大して果てたのが、三島ではなかったのではないだろうか。澁澤龍彦の議論では、それは特に「エロスとタナトス」として語られる。ロマン主義者であるがゆえに、急進的政治主義に至った、 という逆説がここにはあるのだ。また、私の歴史的・時代的な問題もある。70 年当時の状況を振り返れば、それはいわゆる〈政治の季節〉であり、明確な「壁」(村上春樹)があった時代だ。芸術家や文学者はその「大きな物語」に「卵」として ぶつかればよかった。しかし現代は「小さな物語」の時代である。「壁」は不可視になり、グローバル化・ウェブの発展に伴いコミュニティーやクラスタが島宇宙的に横並びになっている。ここでも私は両義的な気分になる。敵対すべき「壁」が 見えなくなったことを自覚しつつも、「小さな物語」に自足することにリグレットを抱くからである。このように、三島やその時代に対するアンビバレンスを、自身の身体を媒介に、徹底した低俗さが高尚さへと反転する一瞬を顕現させようと、パフォーマンスを行った。