「バーリ・トゥード in ニュータウン」

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名称:中島晴矢個展「バーリ・トゥード in ニュータウン」
会場:TAV GALLERY
会期:2019年4月12日〜4月30日
トークイベント:千葉雅也 (哲学者) ×中島晴矢

TAV GALLERYでは、4月12日 (金) から4月30日 (祝・火) までの会期にて、中島晴矢による個展「バーリ・トゥード in ニュータウン」を開催いたします。
本展覧会は、中島晴矢の現時点での代表作といえる、同名の映像作品シリーズを一堂に上映。全3部からなる本シリーズは、2014年の第1作の発表から最終作が完成した2018年まで、これまでに1展示1作品の発表しかされておらず、その全てが一挙に上映されたことはありません。
シリーズ完成を機会にした今回の個展は、それぞれ2日間の上映など発表が限られていた「バーリ・トゥード in ニュータウン-パルテノン-」「バーリ・トゥード in ニュータウンーエキスポー」を含む、全3部に通しで立ち会うことになる初めての展覧会となります。
また、会期中には、哲学者である千葉雅也氏を招いた、中島晴矢とのトークイベントを開催。
TAV GALLERYでは、2015年の「ペネローペの境界」に引きつづき二度目となる中島晴矢の個展を是非ご高覧ください。


TAV GALLERY STAFF


アーティスト・ステートメント

本展は、2014年に発表して以来これまで制作してきた《バーリ・トゥード in ニュータウン》シリーズ全三部作を中心に構成している。
《バーリ・トゥード〜》は、端的に言えばニュータウンの街中で延々と路上プロレスを繰り広げる映像作品である。もともと、大日本プロレスのレスラーたちが商店街で何でもありのデスマッチを敢行する『ケンドー・ナガサキの バーリ・トゥード in 商店街』※1 という、私が中学生の時に衝撃を受けたカルトビデオを下敷きにして、ニュータウンという強固な日常を虚実の入り混じったプロレスの介入よって読み替え、非日常化しようと足掻く試みだった。
そもそもニュータウンは私の地元である。そんなフッド=ルーツをレペゼンする「根拠地の思想」※2 に依拠して、自身の「リアル」を表明したかった。さらに、そのフラットな原風景に対して、私が思春期に“情操教育”を受けた「底が丸見えの底なし沼」(井上義啓)たるプロレスを、思い切りぶつけたかったのだ。
そのような意図のもと作り続けた本シリーズは、「風景」と「身体」という二層で展開してきたように思える。
まず、背面にニュータウンの都市景観を写し取った「風景」がある。計画的に造成された書き割りのような街並み。あたかも行き交う人々が各自の役割を演じているような均質でつるりとした景色。カメラはなるべく引き画のフィックスで回した。スタティックで透明な「気配や雰囲気」「空間の質感」※3 をこそ、画面に定着させたかったからだ。
一方で、前景にはプロレス的ムーヴを行為するレスラーとレフリーの「身体」がある。肉をぶつけ合い、技を掛け合って、それを裁いていく。“凶器”としてのアスファルトや路傍の叢、電信柱、公園の遊具、住宅のシャッターらに叩きつけられる。事実、痛い。そしてそれは、いくらブック(脚本)があろうと「暗黙の了解」によって事後的に成り立つ「ほんとうの本物」の痛みなのだ。※4
物語は、この二層でそれぞれ進行していく。
ニュータウンというトポスは、自身の出身地である港北ニュータウン〜東急田園都市線沿線・あざみ野-たまプラーザ間の小綺麗で閑静な住宅街に始まり、二作目では関東最大規模であり、モノレールやサンリオピューロランドが立地する多摩ニュータウン、そして三作目で日本最古のニュータウン、大阪万博と共に開拓された丘陵に拡がる千里ニュータウンへと至った。それはある種の都市論的なモチベーションで、ニュータウンの起源へと遡っていく道程だったと言っていい。むろんその「風景」は、どの場所でも表層的には大して相違ないのだけれど。
同時に、プロレスにおけるストーリーラインがある。一本ごとの攻防を基とする試合展開もあるし、三本通した星取り(勝敗)を巡る遺恨試合としてのアングル(筋書き)もある。マスクド・ニュータウンとバビロン石田、そしてレフリー・佐藤栄祐なるキャラクターによるサブカルチャーとしての〈小さな物語〉が、感情も含んだ「身体」の起伏を媒介に紡がれていくのだ。こちらも付記すれば、それは「情けなさとマッチョイズムの応酬」※5 と見做される類の、極めて情けないプロレスだったのだが。
斯様な二層構造のもと、「風景」と「身体」の物語はそれぞれ平行線をたどる。均質なニュータウンの都市空間の中で、周囲の歩行者が目もくれない滑稽なアクションは、「私たちの「終わりなき日常」(宮台真司)がいかに強固で分厚いものであるのか、という残酷な事実だけを伝え」※6 ているからだ。
冷めた「風景」と熱した「身体」—————この決して交わらない二つのレイヤーは、しかしレスラーたちが現実にその場でのたうつ時、かろうじて交錯すると私は信じている。疎外論でもノスタルジアでもない。たとえ刹那の瞬きだとしても、その交差点に生じるズレや齟齬を孕んだ「炎症現象」※7 を、私は映像の中で捕まえたいのかもしれないのだ。なぜならそれこそが、現代の都市とわれわれとの間にある、最も癒しがたいギャップの一つだからである。


中島晴矢


※1. 企画:テリー伊藤, ビデオ安売王
※2. 赤井浩太「日本語ラップ feat. 平岡正明」(『すばる』2019.2)
※3. 篠原雅武『生きられたニュータウン』(青土社, 2015.12)
※4. 入不二基義「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス」(『現代思想臨時増刊号 総特集プロレス』2002.2)
※5. 卯城竜太「新世代作家キュレーション対決!!」(『美術手帖』2015.5)
※6. 黒瀬陽平「未遂のバーリ・トゥード」(2015.6)
※7. 江藤淳『決定版 夏目漱石』(新潮社,1979.7)
名称:中島晴矢個展「バーリ・トゥード in ニュータウン」
会場:TAV GALLERY
会期:2019年4月12日〜4月30日
トークイベント:千葉雅也 (哲学者) ×中島晴矢

TAV GALLERYでは、4月12日 (金) から4月30日 (祝・火) までの会期にて、中島晴矢による個展「バーリ・トゥード in ニュータウン」を開催いたします。
本展覧会は、中島晴矢の現時点での代表作といえる、同名の映像作品シリーズを一堂に上映。全3部からなる本シリーズは、2014年の第1作の発表から最終作が完成した2018年まで、これまでに1展示1作品の発表しかされておらず、その全てが一挙に上映されたことはありません。
シリーズ完成を機会にした今回の個展は、それぞれ2日間の上映など発表が限られていた「バーリ・トゥード in ニュータウン-パルテノン-」「バーリ・トゥード in ニュータウンーエキスポー」を含む、全3部に通しで立ち会うことになる初めての展覧会となります。
また、会期中には、哲学者である千葉雅也氏を招いた、中島晴矢とのトークイベントを開催。
TAV GALLERYでは、2015年の「ペネローペの境界」に引きつづき二度目となる中島晴矢の個展を是非ご高覧ください。

TAV GALLERY STAFF

アーティスト・ステートメント

本展は、2014年に発表して以来これまで制作してきた《バーリ・トゥード in ニュータウン》シリーズ全三部作を中心に構成している。
《バーリ・トゥード〜》は、端的に言えばニュータウンの街中で延々と路上プロレスを繰り広げる映像作品である。もともと、大日本プロレスのレスラーたちが商店街で何でもありのデスマッチを敢行する『ケンドー・ナガサキの バーリ・トゥード in 商店街』※1 という、私が中学生の時に衝撃を受けたカルトビデオを下敷きにして、ニュータウンという強固な日常を虚実の入り混じったプロレスの介入よって読み替え、非日常化しようと足掻く試みだった。
そもそもニュータウンは私の地元である。そんなフッド=ルーツをレペゼンする「根拠地の思想」※2 に依拠して、自身の「リアル」を表明したかった。さらに、そのフラットな原風景に対して、私が思春期に“情操教育”を受けた「底が丸見えの底なし沼」(井上義啓)たるプロレスを、思い切りぶつけたかったのだ。
そのような意図のもと作り続けた本シリーズは、「風景」と「身体」という二層で展開してきたように思える。
まず、背面にニュータウンの都市景観を写し取った「風景」がある。計画的に造成された書き割りのような街並み。あたかも行き交う人々が各自の役割を演じているような均質でつるりとした景色。カメラはなるべく引き画のフィックスで回した。スタティックで透明な「気配や雰囲気」「空間の質感」※3 をこそ、画面に定着させたかったからだ。
一方で、前景にはプロレス的ムーヴを行為するレスラーとレフリーの「身体」がある。肉をぶつけ合い、技を掛け合って、それを裁いていく。“凶器”としてのアスファルトや路傍の叢、電信柱、公園の遊具、住宅のシャッターらに叩きつけられる。事実、痛い。そしてそれは、いくらブック(脚本)があろうと「暗黙の了解」によって事後的に成り立つ「ほんとうの本物」の痛みなのだ。※4
物語は、この二層でそれぞれ進行していく。
ニュータウンというトポスは、自身の出身地である港北ニュータウン〜東急田園都市線沿線・あざみ野-たまプラーザ間の小綺麗で閑静な住宅街に始まり、二作目では関東最大規模であり、モノレールやサンリオピューロランドが立地する多摩ニュータウン、そして三作目で日本最古のニュータウン、大阪万博と共に開拓された丘陵に拡がる千里ニュータウンへと至った。それはある種の都市論的なモチベーションで、ニュータウンの起源へと遡っていく道程だったと言っていい。むろんその「風景」は、どの場所でも表層的には大して相違ないのだけれど。
同時に、プロレスにおけるストーリーラインがある。一本ごとの攻防を基とする試合展開もあるし、三本通した星取り(勝敗)を巡る遺恨試合としてのアングル(筋書き)もある。マスクド・ニュータウンとバビロン石田、そしてレフリー・佐藤栄祐なるキャラクターによるサブカルチャーとしての〈小さな物語〉が、感情も含んだ「身体」の起伏を媒介に紡がれていくのだ。こちらも付記すれば、それは「情けなさとマッチョイズムの応酬」※5 と見做される類の、極めて情けないプロレスだったのだが。
斯様な二層構造のもと、「風景」と「身体」の物語はそれぞれ平行線をたどる。均質なニュータウンの都市空間の中で、周囲の歩行者が目もくれない滑稽なアクションは、「私たちの「終わりなき日常」(宮台真司)がいかに強固で分厚いものであるのか、という残酷な事実だけを伝え」※6 ているからだ。
冷めた「風景」と熱した「身体」—————この決して交わらない二つのレイヤーは、しかしレスラーたちが現実にその場でのたうつ時、かろうじて交錯すると私は信じている。疎外論でもノスタルジアでもない。たとえ刹那の瞬きだとしても、その交差点に生じるズレや齟齬を孕んだ「炎症現象」※7 を、私は映像の中で捕まえたいのかもしれないのだ。なぜならそれこそが、現代の都市とわれわれとの間にある、最も癒しがたいギャップの一つだからである。

中島晴矢

※1. 企画:テリー伊藤, ビデオ安売王
※2. 赤井浩太「日本語ラップ feat. 平岡正明」(『すばる』2019.2)
※3. 篠原雅武『生きられたニュータウン』(青土社, 2015.12)
※4. 入不二基義「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス」(『現代思想臨時増刊号 総特集プロレス』2002.2)
※5. 卯城竜太「新世代作家キュレーション対決!!」(『美術手帖』2015.5)
※6. 黒瀬陽平「未遂のバーリ・トゥード」(2015.6)
※7. 江藤淳『決定版 夏目漱石』(新潮社,1979.7)