愛憎の風景

「愛憎の風景」

名称:愛憎の風景
参加作家:関優花、かつしかけいた、小林健太、佐藤研吾、中島晴矢、原田裕規、山根秀信
企画構成:中島晴矢・原田裕規
ハンドアウト(PDF)


愛憎の風景

たまたまわたしがそこにいただけ ただそれだけ
──相対性理論「たまたまニュータウン」


本展は、現代におけるニュータウンのひとつの風景を可視化する試みである。
私はニュータウンで生まれた。横浜市の港北ニュータウンから、田園都市線沿線のたまプラーザにて育った。そこには、駅前の充分な商業施設、たくさんのマンションや戸建て住宅、緑豊かな公園、学校、地区センター、病院、交番など、生活に必要なものは全て揃っていた。幼少期、私はそこで楽しく日々を過ごした。記憶に紐づけられた濃密な体験を今でもよく覚えている。しかし、思春期になると何処か物足りなくなった。刺激や猥雑さが足りない。日常に覆われた街に嫌気がさした。都市の非日常性に焦がれ、東京で遊んだ。常にそこには「愛憎」があった。
そんなニュータウンの風景を、いま見つめ直してみる。
そもそも「風景」とは、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で書いたように、内的人間により「発見」されたものである。もともと純粋な風景そのものが広がっているのではない。ひとがある内面をもって眼差すことで、風景は立ち現れる。たとえば、近代の端緒に、国木田独歩が「武蔵野」の森を「郊外」として見いだしたように。その意味で、ニュータウンの風景もまた、十人十色の見え方があろう。また、各人の中でさえも、玉虫色の光彩を放っているだろう。
哲学者の篠原雅武は『生きられたニュータウン』において、ティモシー・モートンの議論を引きながら、ニュータウンを空間の「雰囲気」や「質感」をもとに捉え直している。本展は、そのようなニュータウン空間の持つ独特の「空気感」を、多様なアーティストたちの表象する「風景」によって構成する営みである。
ニュータウンとは両義的な場所だ。「都市(中心)」でも「地方(周縁)」でもない「立場なき場所」(若林幹夫『郊外の社会学』)──その曖昧さに佇みながら、肯定でも否定でもなく、引き裂かれたまま存在すること。
この町は自動車に睥睨され、巨大なスーパーマーケットが屹立し、建造物が置かれている。その中に人間の生活があり、循環が新たな生を再生産し、また忘れ去られる命がある。
そして、そこで人々は日々格闘している。滑稽なくらい、切実に。
多摩ニュータウンの廃校で、ラヴとヘイトに塗れた風景は、現代日本における日常のリアリティを伴って浮き彫りになるだろう。なぜなら私たちは皆、たまたまそこにいたのだから。

中島晴矢

名称:愛憎の風景
参加作家:関優花、かつしかけいた、小林健太、佐藤研吾、中島晴矢、原田裕規、山根秀信
企画構成:中島晴矢・原田裕規
ハンドアウト(PDF)

愛憎の風景

たまたまわたしがそこにいただけ ただそれだけ

──相対性理論「たまたまニュータウン」

本展は、現代におけるニュータウンのひとつの風景を可視化する試みである。
私はニュータウンで生まれた。横浜市の港北ニュータウンから、田園都市線沿線のたまプラーザにて育った。そこには、駅前の充分な商業施設、たくさんのマンションや戸建て住宅、緑豊かな公園、学校、地区センター、病院、交番など、生活に必要なものは全て揃っていた。幼少期、私はそこで楽しく日々を過ごした。記憶に紐づけられた濃密な体験を今でもよく覚えている。しかし、思春期になると何処か物足りなくなった。刺激や猥雑さが足りない。日常に覆われた街に嫌気がさした。都市の非日常性に焦がれ、東京で遊んだ。常にそこには「愛憎」があった。
そんなニュータウンの風景を、いま見つめ直してみる。
そもそも「風景」とは、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で書いたように、内的人間により「発見」されたものである。もともと純粋な風景そのものが広がっているのではない。ひとがある内面をもって眼差すことで、風景は立ち現れる。たとえば、近代の端緒に、国木田独歩が「武蔵野」の森を「郊外」として見いだしたように。その意味で、ニュータウンの風景もまた、十人十色の見え方があろう。また、各人の中でさえも、玉虫色の光彩を放っているだろう。
哲学者の篠原雅武は『生きられたニュータウン』において、ティモシー・モートンの議論を引きながら、ニュータウンを空間の「雰囲気」や「質感」をもとに捉え直している。本展は、そのようなニュータウン空間の持つ独特の「空気感」を、多様なアーティストたちの表象する「風景」によって構成する営みである。
ニュータウンとは両義的な場所だ。「都市(中心)」でも「地方(周縁)」でもない「立場なき場所」(若林幹夫『郊外の社会学』)──その曖昧さに佇みながら、肯定でも否定でもなく、引き裂かれたまま存在すること。
この町は自動車に睥睨され、巨大なスーパーマーケットが屹立し、建造物が置かれている。その中に人間の生活があり、循環が新たな生を再生産し、また忘れ去られる命がある。
そして、そこで人々は日々格闘している。滑稽なくらい、切実に。
多摩ニュータウンの廃校で、ラヴとヘイトに塗れた風景は、現代日本における日常のリアリティを伴って浮き彫りになるだろう。なぜなら私たちは皆、たまたまそこにいたのだから。

中島晴矢