麻布逍遥

Main visual

名称:中島晴矢個展「麻布逍遥」
会場:SNOW Contemporary
会期:2017年6月2日〜7月1日
ゲストキュレーター:青木彬
撮影:木奥恵三
ハンドアウト(PDF)


「麻布逍遥」展に向けて – アーティスト・ステートメント

散歩はラジカルである。
日本における近代文学の先駆者・坪内雄蔵が、筆名に「逍遥遊人」を名乗ったように、芸術は、逍遥、即ち気ままにあちこちそぞろ歩くことからはじまると言って過言ではない。目的地への最短ルートを急ぐのではなく、道草しながら物見遊山で漫歩する、その無目的な彷徨のなかにこそ、詩や画が生まれる余地はある。勝手気儘にぶらぶらと、路地を折れ、坂を登って、商店、寺社、事物、樹木、碑文、落書、公園、河川等に目を遣りながら、游ぐ街路(=ストリート)は刺戟的だ。
本展における散歩の舞台は「麻布」である。東京の山の手に位置するそこは、起伏に富んだ谷と丘、そしてそれらを繋ぐ数多の坂道からなる街だ。ゼロ年代、東京タワーと開業前後の六本木ヒルズを遠景に、私はこの近辺で中高時代を過ごしたが、2020年の東京も控えた現在、またぞろ麻布を逍遥した。その足取りは都市空間のみならず、歴史や時代を遡り、時空を跨いでゆく。いまの麻布を媒介に、近代から江戸、あるいは山の手から下町へととりとめなくうつろう聯想は、しかし、未来のあり得べき東京を逆照射し、翻って、あたらしい「風景」(柄谷行人)を創出することを試みる。
展示のベースとなるのは落語「井戸の茶碗」だ。麻布茗荷谷(現六本木一丁目・谷町インターチェンジ)に住む正直者の屑屋の清兵衛が、屑籠を背負って白金・高輪エリアを流しながら、裏長屋の浪人・千代田卜斎と細川屋敷の勤番侍・高木佐久左衛門の二者間を、仏像や茶碗といったオブジェを伴って行き来する人情噺である。その江戸の「遊歩者」(ヴァルター・ベンヤミン)としての屑屋を現代に召還すれば、かの健脚は麻布一帯のものものを掠め運ばれよう。具体的にそれは本展において、がま池、東京タワー、おかめ団子、アークヒルズ、龍圡軒、偏奇館、そして無数の谷・丘・坂等々を浮かび上がらせる。
たしかにこれは個人的な都市(=テクスト)の読みに過ぎないが、しかしその物語を通じて、麻布乃至東京の全体性を炙り出す「考現学(=モダノロジー)」(今和次郎)に相違ない。先述したように、麻布という街をリミックスし読み替えて、いまと異なるあり得たかもしれないオルタナティヴな東京を夢想すること(タラレバ!)が、私の企図するところである。
現代は「感情」の時代だ。政治においてはポスト・トゥルース的な感性が跋扈し、SNSを動力源とした共感が社会システムを駆動させる。右を見ても左を見ても、市街を歩くということが、同一方向を向き同一のメッセージを叫ぶ、動員のための機能性に堕しているのだとすれば、私は時代に背を向けて手前勝手に路を徘徊する自由を確保したい。
そもそも近代芸術(=モダン・アート)の道程とは、神の裁きを失した後の人間が自我(=アイデンティティ)を求めてさまよい歩く、散歩道そのものではなかったか。
再び言おう、散歩はラジカルである。
誰に断りもなく独り思考し、あてどなく漫然と逍遥する、それこそ当世もっとも革新的な営為なのだ。


中島晴矢

名称:中島晴矢個展「麻布逍遥」
会場:SNOW Contemporary
会期:2017年6月2日〜7月1日
ゲストキュレーター:青木彬
撮影:木奥恵三
ハンドアウト(PDF)

「麻布逍遥」展に向けて – アーティスト・ステートメント

散歩はラジカルである。
日本における近代文学の先駆者・坪内雄蔵が、筆名に「逍遥遊人」を名乗ったように、芸術は、逍遥、即ち気ままにあちこちそぞろ歩くことからはじまると言って過言ではない。目的地への最短ルートを急ぐのではなく、道草しながら物見遊山で漫歩する、その無目的な彷徨のなかにこそ、詩や画が生まれる余地はある。勝手気儘にぶらぶらと、路地を折れ、坂を登って、商店、寺社、事物、樹木、碑文、落書、公園、河川等に目を遣りながら、游ぐ街路(=ストリート)は刺戟的だ。
本展における散歩の舞台は「麻布」である。東京の山の手に位置するそこは、起伏に富んだ谷と丘、そしてそれらを繋ぐ数多の坂道からなる街だ。ゼロ年代、東京タワーと開業前後の六本木ヒルズを遠景に、私はこの近辺で中高時代を過ごしたが、2020年の東京も控えた現在、またぞろ麻布を逍遥した。その足取りは都市空間のみならず、歴史や時代を遡り、時空を跨いでゆく。いまの麻布を媒介に、近代から江戸、あるいは山の手から下町へととりとめなくうつろう聯想は、しかし、未来のあり得べき東京を逆照射し、翻って、あたらしい「風景」(柄谷行人)を創出することを試みる。
展示のベースとなるのは落語「井戸の茶碗」だ。麻布茗荷谷(現六本木一丁目・谷町インターチェンジ)に住む正直者の屑屋の清兵衛が、屑籠を背負って白金・高輪エリアを流しながら、裏長屋の浪人・千代田卜斎と細川屋敷の勤番侍・高木佐久左衛門の二者間を、仏像や茶碗といったオブジェを伴って行き来する人情噺である。その江戸の「遊歩者」(ヴァルター・ベンヤミン)としての屑屋を現代に召還すれば、かの健脚は麻布一帯のものものを掠め運ばれよう。具体的にそれは本展において、がま池、東京タワー、おかめ団子、アークヒルズ、龍圡軒、偏奇館、そして無数の谷・丘・坂等々を浮かび上がらせる。
たしかにこれは個人的な都市(=テクスト)の読みに過ぎないが、しかしその物語を通じて、麻布乃至東京の全体性を炙り出す「考現学(=モダノロジー)」(今和次郎)に相違ない。先述したように、麻布という街をリミックスし読み替えて、いまと異なるあり得たかもしれないオルタナティヴな東京を夢想すること(タラレバ!)が、私の企図するところである。
現代は「感情」の時代だ。政治においてはポスト・トゥルース的な感性が跋扈し、SNSを動力源とした共感が社会システムを駆動させる。右を見ても左を見ても、市街を歩くということが、同一方向を向き同一のメッセージを叫ぶ、動員のための機能性に堕しているのだとすれば、私は時代に背を向けて手前勝手に路を徘徊する自由を確保したい。
そもそも近代芸術(=モダン・アート)の道程とは、神の裁きを失した後の人間が自我(=アイデンティティ)を求めてさまよい歩く、散歩道そのものではなかったか。
再び言おう、散歩はラジカルである。
誰に断りもなく独り思考し、あてどなく漫然と逍遥する、それこそ当世もっとも革新的な営為なのだ。

中島晴矢