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Talk event「シャカイとゲージツ」
 登壇:宮台真司×内海信彦(司会 : 中島晴矢)

「シャカイとゲージツ」は、「行使膣展」の一環として私が主催したトークイベントです。前年の鈴木邦男氏に続き、 社会学者の宮台真司氏を招き、内海氏との対談を設計しました。 まず観客はギャラリーに足を踏み入れた瞬間から、爆音のノイズに包まれることになります。内田輝氏と「P.A.N.A project」(サウンドクリエーター集団)による、アヴァンギャルド・ジャズの即興演奏が始まっているからです。200 人余りの観客の熱気に包まれた雰囲気のまま、二人のトークがはじまりかけた折、私が乱入し、パフォーマンスを行い、興奮した観客と殴り合いになったりする異様な混沌の中、対談が行われました。 私のパフォーマンス《世界陰核戦争宣言》は、全共闘的新左翼によるアジ演説の明確なパロディです。当時の伝説的バンド「頭脳警察」の曲「世界革命戦争宣言」の歌詞をベースに、現代的な視点から当時のスタイルをアイロニカルに再提示しています。ノイズ・ミュージックを背景に、現代の社会におけるアメリカン・グローバライゼーショ ンの一元化、社会的な排除の促進、インターネットの全域化といった問題を、批判的にがなりたてて、最終的に、自分自身の股間につめた爆薬を爆破させるという、一人「自爆テロ」を敢行しました。 このパフォーマンスの主題は「非日常性」にあります。現代において、かつてありえた表現による非日常性の惹起は、 最早むずかしくなっています。日常 / 非日常という明確な境界線は消失し、全てが日常性に覆われてしまっている。「非日常的」に見える表現でも、それは「どこかで見たようなもの」に過ぎません。既知性が全てを支配する再帰性の中において、今後どういった表現をしていけばよいのか、が私の切実な問題でした。 そもそも表現=芸術は、常に社会の影響を受けざるを得ません。社会が変化すれば芸術も変化し、また、芸術の変化は社会の変化を予言しもする。この社会と芸術の相互的な関係性について考察するために、トークイベント「シャ カイとゲージツ」をセッティングしました。
二人の対談はまず、70 年代と現代の差異からはじまりました。アヴァンギャルド・アンダーグラウンド・ハプニングなどの経験による具体的なエピソードから、かつてはこの社会は「ウソ社会」であるという感受性が一般的だった、 と言います。日常の所々に破れ目があり、秩序を爆砕するものとしてアートがあったのです。それはロックもポップ もジャズもノイズも歌謡曲もそうだった。しかし現代は所詮すべて日常に回収されていくしかない。非日常の中に日常が浮かんでいるのではなく、「登録された非日常」しかない。美術史的に言えばポロック以降の、アートの不可能性についての気付きがあります。これでは、日常的な基盤を揺るがすはずのアートが、もはやサプリメントにしかな らない。つまり、アートも〈システム〉に登録されていくしかない。これは近代化に伴う必然的な現象です。 この近代の全域化に伴う不全感は、私たちにとって非常に共感できます。では、このような現代において、アーティ ストは何を行えばよいのか。 議論は、「非日常の登録の歴史」に遡ります。奈良時代におけるシャーマンから陰陽師への役人化。江戸時代の天保の改革。ナチズム下のドイツやロシア、大日本帝国。ことほどさように、ガバナンスの観点から非日常は〈システム〉に登録されてゆきます。そこから議論は 80 年代に移行します。カタログやパロディによって現実を読み替え、異化する運動がおこりました。しかしそれもまた失効してしまいます。 では現代はどうするか。ひとまず、アーティストは、非自明性を自明性として登録しようとする〈システム〉と永久革命的に闘争し続けるしかない、というのが結論でした。アーティストの役割は、〈システム〉の運動を先回りして 人に何を〈体験〉させるかです。3.11 を経た現代においては、日常の「社会」が、最早「シャカイ」に過ぎないことが自明になっています。このような状況下では、悪化する「シャカイ」を逆手にとって表現を行っていくしかないでしょう。

Talk event「シャカイとゲージツ」
 登壇:宮台真司×内海信彦(司会 : 中島晴矢)

「シャカイとゲージツ」は、「行使膣展」の一環として私が主催したトークイベントです。前年の鈴木邦男氏に続き、 社会学者の宮台真司氏を招き、内海氏との対談を設計しました。 まず観客はギャラリーに足を踏み入れた瞬間から、爆音のノイズに包まれることになります。内田輝氏と「P.A.N.A project」(サウンドクリエーター集団)による、アヴァンギャルド・ジャズの即興演奏が始まっているからです。200 人余りの観客の熱気に包まれた雰囲気のまま、二人のトークがはじまりかけた折、私が乱入し、パフォーマンスを行い、興奮した観客と殴り合いになったりする異様な混沌の中、対談が行われました。 私のパフォーマンス《世界陰核戦争宣言》は、全共闘的新左翼によるアジ演説の明確なパロディです。当時の伝説的バンド「頭脳警察」の曲「世界革命戦争宣言」の歌詞をベースに、現代的な視点から当時のスタイルをアイロニカルに再提示しています。ノイズ・ミュージックを背景に、現代の社会におけるアメリカン・グローバライゼーショ ンの一元化、社会的な排除の促進、インターネットの全域化といった問題を、批判的にがなりたてて、最終的に、自分自身の股間につめた爆薬を爆破させるという、一人「自爆テロ」を敢行しました。 このパフォーマンスの主題は「非日常性」にあります。現代において、かつてありえた表現による非日常性の惹起は、 最早むずかしくなっています。日常 / 非日常という明確な境界線は消失し、全てが日常性に覆われてしまっている。「非日常的」に見える表現でも、それは「どこかで見たようなもの」に過ぎません。既知性が全てを支配する再帰性の中において、今後どういった表現をしていけばよいのか、が私の切実な問題でした。 そもそも表現=芸術は、常に社会の影響を受けざるを得ません。社会が変化すれば芸術も変化し、また、芸術の変化は社会の変化を予言しもする。この社会と芸術の相互的な関係性について考察するために、トークイベント「シャ カイとゲージツ」をセッティングしました。
二人の対談はまず、70 年代と現代の差異からはじまりました。アヴァンギャルド・アンダーグラウンド・ハプニングなどの経験による具体的なエピソードから、かつてはこの社会は「ウソ社会」であるという感受性が一般的だった、 と言います。日常の所々に破れ目があり、秩序を爆砕するものとしてアートがあったのです。それはロックもポップ もジャズもノイズも歌謡曲もそうだった。しかし現代は所詮すべて日常に回収されていくしかない。非日常の中に日常が浮かんでいるのではなく、「登録された非日常」しかない。美術史的に言えばポロック以降の、アートの不可能性についての気付きがあります。これでは、日常的な基盤を揺るがすはずのアートが、もはやサプリメントにしかな らない。つまり、アートも〈システム〉に登録されていくしかない。これは近代化に伴う必然的な現象です。 この近代の全域化に伴う不全感は、私たちにとって非常に共感できます。では、このような現代において、アーティ ストは何を行えばよいのか。 議論は、「非日常の登録の歴史」に遡ります。奈良時代におけるシャーマンから陰陽師への役人化。江戸時代の天保の改革。ナチズム下のドイツやロシア、大日本帝国。ことほどさように、ガバナンスの観点から非日常は〈システム〉に登録されてゆきます。そこから議論は 80 年代に移行します。カタログやパロディによって現実を読み替え、異化する運動がおこりました。しかしそれもまた失効してしまいます。 では現代はどうするか。ひとまず、アーティストは、非自明性を自明性として登録しようとする〈システム〉と永久革命的に闘争し続けるしかない、というのが結論でした。アーティストの役割は、〈システム〉の運動を先回りして 人に何を〈体験〉させるかです。3.11 を経た現代においては、日常の「社会」が、最早「シャカイ」に過ぎないことが自明になっています。このような状況下では、悪化する「シャカイ」を逆手にとって表現を行っていくしかないでしょう。