ペネローペの境界

ペネローペの境界

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会場見取り図 [PDF]

ペネローペの境界
この展示は古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』(ホメロス)の物語を基底材としています。特に、夫であるオデュッセウスの帰郷を待ち続ける妻・ペネローペを主柱に据えました。
ペネローペは、トロイア戦争へ行ってしまった夫をイタケー島の城で待ち続けます。しかし、生死も定かでないオデュッセウスに代わって王の地位を奪おうと、周辺から無礼な求婚者たちが押し寄せてくる。そこで貞淑な彼女は、父のための織布を織り上げたら求婚者のうちの誰か一人と結婚すると宣言した上で、日中に生地を織り、夜中にそれをほどくという作業をくり返し続ける——これが「ペネローペの織物」というエピソードです。
この”織ってはほどかれるペネローペの織物”は、境界を引き、あるいはほどいて、絶えず境界線を刷新し続ける現代世界の象徴として機能しないでしょうか。
たとえば、フクシマの問題があります。4年前を境にニッポンの風景は一変しました。それは地震と津波という、大地と海の境界の侵犯によって起こされ、また原発事故による放射性物質の飛散は、人の住める区域と住めない区域の境界を、今でもなお生み出し続けています。
私は今年に入って、人々が震災を忘却しつつあるなか、初めて被災地を訪問しました。そこでは除染作業が進む代わりに、禍々しく黒い大量のフレコンバックが山のように積み上げられていた。果たしてこれを復興と呼べるのだろうか…? そんな疑問を抱えながら、富岡町を中心に五度に渡って福島を訪れました。そこで見聞きし、思考した事柄を、(非当事者性やスペクタクル化に躊躇しながらも)映像や写真に収め、作品にしています。
あるいは、国境という境界線もあります。それらは日々引かれ直され、拮抗し、ぶつかり合い、更新されている。地理的な境界のみならず、グローバル化を背景に、それは主義や宗教、メディアやインターネットを介した次元でもそうです。たとえば、展示をつくっている最中に起きた、シャルリ・エブド事件やイスラム国の一連のテロリズムをとってみても自明でしょう。ISによるカリフ制の宣言や、イラクからシリアにまたがる占拠地域は、西洋近代がつくった国境線や国家の枠組みの正統性を、明らかに問い質しています。つまり、ヨーロッパ近代が相対化され、民族や主義や宗派といった各々の普遍主義を掲げた闘争、テロや紛争が至る所で頻発している状況こそが、現代世界なのではないでしょうか。これらを踏まえて私は、アルテ・ポーヴェラの作家アリギエロ・ボエッティの《MAPPA》を下敷きに、国旗のシリーズを制作しました。
そもそも芸術とは、「ペネローペの織物」のようなものではないでしょうか。旧来の美を否定し、新しい美学を提示する、そしてそれもまたすぐに新しい価値によって刷新されるというダイナミズムこそが、アートの総体なのです。
斯様に現代は、多様なレヴェルで境界線が引かれ、ほどかれ、また引き直され…という永久運動にさらされています。その上で、様々に偏在する「ペネローペの境界」を多元的に提示する——それが本個展のテーマです。
中島晴矢

未遂のバーリ・トゥード
『バーリ・トゥード in ニュータウン』(2014)は、現時点における中島晴矢の代表作である。90年代のカルトビデオ『ケンドー・ナガサキのバーリ・トゥード in 商店街!』(以下、『商店街』)のオマージュとして、あざみ野の閑静な住宅街を舞台に、レスラーに扮した中島本人(マスクド・ニュータウン)が延々とプロレスを繰り広げる。
中島は、中学生のときに『商店街』を見て衝撃を受けたという。当時旗揚げしたばかりの「大日本プロレス」と、AVやアニメの製作卸しとフランチャイズ展開で注目を集めていた「ビデオ安売王」がタッグを組み、テリー伊藤の企画によって制作された『商店街』は、昼下がりの商店街を舞台にケンドー・ナガサキが暴れ回り、八百屋のスイカ、寿司屋の暖簾、喫茶店の看板などなど、商店街に並ぶあらゆるものを凶器として、若手レスラーたちをなぎ倒してゆくといった内容だ。エスカレートしてゆくケンドー・ナガサキの暴走と、訝しげに事のなりゆきを見つめる野次馬を同時にとらえるカメラは、一体この騒動のどこまでが「仕込み」なのか、その境界を曖昧にしようとする。言うまでもなく、フェイク・ドキュメンタリーを意識したこの手法は、プロレスそのものに対する自己言及であり、虚構と現実が絡みあうプロレスの世界が、リングを越えて私たちの日常に侵入してくるのである。
対して、中島が「私のリアリティに則してオマージュした」という『バーリ・トゥード in ニュータウン』はどうだろうか。昼下がりのニュータウンという、まさに絵に描いたような日常を舞台に展開されるプロレスはしかし、『商店街』のように、私たちにとっての虚構と現実の境界を撹乱し、虚実がないまぜになった世界を垣間見せることはない。どこまでも続くかのように見える分譲宅地のなかで、道行く人たちに徹底的に無視されながら、ただひたすらに路上でプロレスを続けるその映像は、私たちの「終わりなき日常」(宮台真司)がいかに強固で分厚いものであるのか、という残酷な事実だけを伝えているのである。
かつて寺山修司は、70年代に「市街劇」という演劇の形式を生み出し、都市を舞台に演劇を仕掛けることで虚構と現実を混在させようと目論んだ。当時の寺山は、パリ五月革命のナンテールの壁の落書きにあった「石畳の下は砂浜だった」という言葉をアレンジして、「今日、どの下宿の畳をはがしても、その下におふくろの死体が埋めてないとは言い切れないのである」と語ったけれど、中島の映像がとらえるニュータウンのアスファルトは、どうやってもはがせそうにない。
中島は普段、政治的なイシューを扱った作品を多く発表している。震災、原発問題から集団的自衛権、国立競技場改築問題まで、およそ巷で話題になっている時事問題に対して、作品のかたちで手早くコメンタリーを残してゆくのが彼のスタイルであるようだ。そのなかで、政治的なテーマとは何の関係もない『バーリ・トゥード in ニュータウン』は、いささか異色の作品ということになるだろう。しかし、にもかかわらず私がこれを彼の「代表作」と呼ぶのは、そこに描かれた日常の分厚さ、いくら虚構(作品)をぶつけてもまったく動じない現実の強固さを、誰よりも中島自身が、常に意識しながら活動を続けていると思えるからであり、無力だと知りながらプロレスを続けるレスラーの姿が、中島自身の活動全体に対する戯画として読めるからである。
この自己言及的態度が、ナイーブさとナルシシズムに堕し、単なる自己肯定に陥ることなく発展を遂げるにはまだ時間が必要だろう。おそらく中島は、「終わりなき日常」の一瞬の隙をついて、本当の「ガチンコ」バトルに持ち込むタイミングを、辛抱強く待ち続けているのである。
黒瀬陽平